クラシックの滅亡
最近、クラシック音楽がつまらない。正直言って、あきた。
近頃は、もっぱら大音量、大迫力を追い求めてCDを聴く毎日である。腰をぬかすような強音、とんでもない音の嵐に翻弄されたい、圧倒されたい、メチャクチャにされたい、という妖しくもマゾヒスティックな夢想に突き動かされ、CDをかける。
そこには、かつて求めていた、精神性なんてものは、微塵もない。そもそも、クラシックにはまったのは、音楽に精神性を見出したからであった。精神性のないクラシックなんて、気の抜けたサイダーと同じで聴く価値なんてない。ロックやポップスとかわらない。音楽を聴いていても、ものを考えない。ひたすら、快感だけを追い求める。CDだって、聴きたいものはたいてい図書館に行けば二週間以内で、しかも無料で、手に入る。(クナッパーツブッシュはないけれど・・・)そして、著作権を無視してコピーしてしまい、自分のものにしてしまう。そうやって、今まで膨大な数のCDをコピーして、保管してきたが、たいていのCDはそう何度も聞きなおさない。集めることが、目的化している。オタクになりかけている。このことをアノルドは痛烈に批判する。
「音楽は物象化され、所有物となる」
クラシック音楽は、商業主義と結びつくことで、滅びかけている。音楽は情報となり、オリジナルとコピーの境界がなくなり、オリジナルの権威は失墜する。価値は希薄化する。音楽は、消費の対象になり、感覚的なもの、刺激的な興味の対象になる。
許光俊という批評家はクラシックをこう定義する。
「いまあるものでなく、ないものに対する憧れ。二元論とか弁証論とか終末論とか、世界の見方・とらえ方・考え方を内在する音楽。娯楽や刺激ではなく、真理を追及しようとする一種の宗教。(このくだりに共感して、僕はクラシック音楽教を作ろうと思った)」
いまのぼくはどうであろうか。大量のCD、コンサートはたしかにありがたい。しかし、そこにはもはや憧れはない。かわりにあるのは、欲望である。指揮者の聴き比べ。名盤の聴き漁り。大量のCDをコピー、収集することによる所有欲の充満。そこには、かつてのような憧れは存在しないのだ。ベートーヴェンの苦悩に共感し、チャイコフスキーのメランコリーに心を打たれ、ブラームスの孤独に同情するような僕は、どこかにいってしまったのだ。
悲しいことだが、僕の中では、クラシック音楽は滅びてしまった。うつである。絶望である。僕は、もうクラシックをあまり聴かないだろう。
💡クラシック滅亡論と宗教としてのクラシック - 許光俊