シェーンベルクのヘンタイ音楽にタジタジ
とある人からマイミクの申請を受け取ったので、つられてアクセスしてしまった。どうせだから、つられて日記も書こう。息抜きだ。(じつはもう三時間も息抜きをしてたりして・・・ついでに再試験に落ちたらショックで息ができなくなったりして・・・orz)
ぼくは、花粉症がつらいので、三週間後にウィーン国立歌劇場に行って、シェーンベルクの歌劇「モーゼとアロン」を聴く。なので、その予習として、最近はシェーンベルクの作品を片端から聴いている。
はっきりいって、この作曲家、キモいのだ。こういうやつは、真っ先にいじめの対象になるね。マーラーは、臨終のときにこんな言葉を吐いた。「私がいなくなったら、シェーンベルクはどうなるのだ」。グスタフさん、こんなヘンな方向へと行ってしまいました。彼は無調音楽、十二音技法とともに、現代音楽の創始者、つまり、僕の大好きなロマン派音楽をぶっ壊した張本人なのだ!
なにがキモイかというと、メロディーがない。意味不明な音が、なんの秩序もなく羅列されている感じ。(しかし、解説書を読むと、楽譜を読めば厳格な秩序でもって書かれているらしい)
それもそのはず、十二音技法というのは、キモいものを表現するために生まれたのだ。芸術は、はじめは美しさを追及してきた。その後、人間の苦悩や歓喜、または幻想的な世界を描いてきた。そして、ネタがなくなって、最後にたどり着いたのが、キモいものを表現する芸術だった。小説で言えばドストエフスキーとかトルストイ、絵画だと(あまり詳しくないけど)抽象絵画、そして音楽では無調音楽。
フロイトの理論に、タナトス理論というものがある。これによると、人間は幸福やら美やら創造を愛するとともに、死や破壊、醜さも同じくらい愛するのだそうだ。人間の本能は生きるためではなく、無に帰るためにある、そして、ある物事を打ち壊し、解体し、無に帰そうとする死と破壊の欲求が誰の心にもあるのだ。この精神のエネルギーを、フロイトはタナトスと名づけた。
「絶望の中にも焼けつくように強烈な快感があるものだ。ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときはなおさらである。
人間があれほど破壊と混沌を愛するのは、目的を達し、自分たちが創っている建物を完成するのを、自身、本能的に恐れているからではないだろうか? もしかしたら、人類がこの地上において目指しているいっさいの目的もまた、目的達成のためのこの不断のプロセス、言い換えれば、生そのものの中にこそ含まれているのであって、目的それ自体の中には存在していないのかもしれない。人間は到達を好むくせに、完全に行き着いてしまうのは苦手なんだ。
ひょっとして、人間が愛するのは、泰平無事だけではないかもしれないではないか?人間が苦痛をも同程度の愛することだって、ありうるわけだ。いや人間が時として、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることがあるのも、間違いなく事実である。泰平無事だけを愛するのはむしろ不作法なことにさえ思われる。善悪は別として、時には何かを思い切りぶち壊すのも、やはりたいへん愉快なことではないか。 僕の確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌を決して拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。 (ドストエフスキー)」
じつはぼくの今の心境は↑の文章に似てる。ぼくなんかも、留年がかかった、進退きわまった惨めな境遇の今の自分を痛切に意識すると、焼けつくような強烈な快感を感じてしまう。自分なんてダメだな、クソだなと思うだけで、眠ったまま、アノ世界へと溶け込んでしまいたいと思うだけで、興奮する。アヒャヒャヒャヒャ。
十二音技法とは、メロディーになる以前の、人間の深層意識を表現するのに最適な技法なのだ。虚無感、絶望感、醜さ、嫉妬・・・。そこには幸福、喜び、美しさはいらない。とにかく、シェーンベルクは、そんな世界を描き出した。
・浄められたる夜、グレの歌 ・・・まだ、調性を保っていた頃の作品。この二つはけっこう好きかもしれない。
・期待、月に憑かれたピエロ、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、ナポレオンへのコード、オーケストラのための変奏曲、モーゼとアロン ・・・無調音楽と十二音技法による音楽。正直、無調音楽と十二音技法の区別がわからない。そして、キモイ。アアイヤダ。眠いときは、眠くなる。それでも我慢して、最後まで聴く。
しかし、である。ここで、ある変化が起こる。なんだか、この意味不明さが快感になってきたのだ。以前、ジャズの本を読んだとき、こんなことが書かれていた。
「人の耳には、どの程度の緊張音までを心地よく感じるか、という形容範囲がある。それは人によって違っているが、形容範囲はある程度音楽を聴きなれることで、幅を大きくすることができる。近代になって、ドビュッシーやラヴェルなどの印象派が登場したときも、人々は驚き、なかには耳を覆った人もいたという。耳慣れない緊張感のあるサウンドは、ときに不快に感じてしまうのだ。だが、人の耳はやがて緊張に慣れる。慣れるばかりか、快感になる。 」
この、不気味なリズム!不協和音!邪悪なうずき!混沌にして崇高!・・・これは好きかも知れない。
これには、正直とまどいを感じる。なんか、自分の感性が変な方向へと向かっているような気がするのだ。たとえれば、性向がフェティシズムやサドマゾの方へと向かっている感じ
しかし、これは新たな発見とともに、喜びでもある。なぜなら、これはあらたな興奮の世界かもしれないからだ。そういえば、ぼくがクラシック音楽を聴きたての頃は、マーラーやショスタコーヴィチの音楽は理解できなかった。しかし、今ではけっこう好きだ。それと同じようなことが、起こるのだろうか?
今まさに、あらたな快楽の世界が目の前にグァッと開けたような心持がする。
ゲッ、気づけば今までで一番重量級の日記になってしまった。一時間が経過していた。ああ、どうしよう・・・。)